2011年6月19日日曜日

科学はどこまで政治に干渉すべきなのか

放射線と原子力発電所事故についてのできるだけ短くてわかりやすくて正確な解説、という結構長い(笑)読み物が回覧されてきた。いや、笑って失礼。でも、できるだけ短く書いてもこれだけの長さになってしまうあたりに、この問題の深さを実感する。

よく書けているなぁ、と感心したのは放射線って体に悪いの?という章の「商店街のくじ引き」の部分。アタリの確率が50/250から51/250に変化すると何が起きるか、というお話。統計物理学の専門家が本気だしてわかりやすく解説するとこうなるのか、と感心。

だが、その直後からこの名文書がやや迷走を始める。迷走というのは大げさかもしれない。ただ、「放射線と原子力発電所事故についてのできるだけ短くてわかりやすくて正確な解説」という題名には不釣合な話題が混じってくるわけだ。

それは「どう考えればいいのか?」という読み手側の判断をいくつか示唆するあたりからで

  • 個人的観点で気にしない
  • 社会的観点で気にしない
  • 個人的観点で気にする
  • 社会的観点で気にする
といういくつかの選択肢が紹介された後
どの考えもそれなりに筋が通っているので、ぼくとしてはどれを推薦するということはない。 特に、個人としては、自分の趣味とか感じ方とかで、好きな考え方を選んでいいと思う。 ただし、政府や地方自治体のように人々を守るべき立場から、個人に【気にしない派】の考えを勧めるのは許されないことだと考えている。 
個人には、「気にする自由」があり、また、「気にしない自由」がある。それは政府にとやかく言われることではない。政府や地方自治体は【気にする派】の人々もなっとくして暮らせるように最大限の努力をしなくてはならない。 だから、政府や地方自治体は【気にする派】にならなくてはいけない(そして、いろいろなリスクをちゃんと秤にかけて、ものごとを決めていかなくてはならない)とぼくは信じる。
なる自説が展開されるあたりで、その異色感は強まった感を受ける。個人に気にしない自由や気にする自由があるのは確かだし、政府・自治体が住民を守るべき、というのにも異論はない。

ここでごっそり抜け落ちているのは「いくらかけて、どれくらい守るのか」という費用対効果の検証である。もしかしたら「いろいろなリスクをちゃんと秤にかけて」という部分に費用対効果の話も含まれているのかもしれない。だけどその費用対効果を真面目に考えないと「100%安全」という実現不可能かつ著しく費用がかかる政策に偏ってしまうことになる。

民主主義なので、有権者がそういう選択をすることももちろん可能であろう。だが、将来癌になるかもしれない可能性をほんの少し下げるために、次の世代に莫大なツケを残すという選択は果たして正しいのだろうか。

科学が政治的判断を語るのならそのあたりまで掘り下げて検討して欲しい。それができないのであれば、政治的判断を語るのは保留するべきではなかろうか。

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